林大城(長野県松本市)
二郭入口
①別名:
なし
②築城時期:
室町時代
③築城者:
小笠原氏
④分類:
山城
⑤遺構:
郭、土塁、堀切、石垣、竪堀、土橋、井戸
⑥訪城時期:
2012年4月
⑦満足度:
★★★★☆
⑧歴史:
信濃守護・小笠原氏の居城。小笠原氏はもともと甲斐源氏(武田氏)の一族で、南北朝期、北朝方についた小笠原貞宗は信濃守護に任ぜられた。応仁の乱(1467)の頃には小笠原氏は2つに分かれ、南信濃守護となった小笠原光康は伊那の松尾城(飯田市)を、北信濃守護となった小笠原持長は松本の井川館に居を構えた。その後、持長系の小笠原氏は林城を築き、井川館の守りの要とした(後に出城として林小城が築かれ、本城は大城と呼ばれる様になったと言われる)。戦国時代に入り甲斐の武田信玄(晴信)が信濃に侵攻すると、林城主・小笠原長時は村上義清らとともにこれに抵抗するが、天文十七年(1548)塩尻峠で武田勢に完敗。天文十九年には武田勢が松本平に侵攻、小笠原方のイヌイの城(埴原城か)が落城すると、林大城は周辺諸城とともに自落した。その後の林城の歴史は定かではないが、武田氏に使用された可能性や、武田氏滅亡後に旧領を回復した小笠原貞慶によって改修された可能性もある。
⑨訪城記:
林大城は薄川に面した比高約200mの山城です。山頂に主郭・二郭を起き、大手である北西側には数十段にも渡る段郭を配置しています。これらの段郭の一つ一つは、林小城や埴原城に見られるような狭小なものではなく、居住スペースになりうるだけの広さを持ち合わせており、家臣団の屋敷が設けられていたのかもしれません。主郭は土塁で囲まれ、一部には石垣が残ります。主郭の背後は例によって堀切で尾根を分断していますが、ここからさらに尾根続きである南方にも3本ほどの堀切を設け、防御を固めています。主郭の東側斜面にも小規模ながら三重堀切や井戸址(化粧水)などの遺構が残ります。城全体の規模は大きいものの、近くの桐原城や山家城と比べると、縄張はそれほど複雑ではありません。
一の門付近の二重竪堀
堀切
段郭群
竪堀
堀切
郭址
主郭手前の堀切
主郭
主郭土塁の石垣
南側尾根の堀切
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林小城(長野県松本市)
石垣を伴う主郭の塁壁
①別名:
なし
②築城時期:
室町時代
③築城者:
小笠原氏
④分類:
山城
⑤遺構:
郭、石垣、土塁、堀切、竪堀
⑥訪城時期:
2012年4月
⑦満足度:
★★★★☆
⑧歴史:
信濃守護・小笠原氏は、もともと井川館の居を構えていたが、室町時代に林大城を築くとこれに移った。林小城の築城時期は定かではないが、大城の出城として築かれたものと考えられている。天文十九年(1550)、甲斐の武田信玄(晴信)による信濃侵攻の際、大城や桐原城とともに自落、城主・小笠原長時は国外へ逃亡、城は武田氏の支配下となる。天正十年(1582)武田勝頼が甲斐・天目山で滅ぶと、徳川家康の家臣となっていた小笠原貞慶(長時の子)が旧領を回復するが、この際に林小城も修復された可能性がある。結局、貞慶は松本城を築いてこれに移り、林小城は大城とともに廃城になったと考えられる。
⑨訪城記:
林小城は、林大城とは大嵩崎(おおつき)集落を挟んで指呼の位置にあります。城址は山林となり遺構がよく残されています。大城に比べると城全体の規模は小さいものの、大城ではほとんど見られない石垣遺構が主郭周辺によく残り、小笠原氏城郭特有の段郭も見られます。現在残る遺構からして、一般的には大城よりも後に築かれたものと考えられていますが、これらの遺構が武田氏侵攻前に小笠原氏によるものなのか、それとも武田氏によるものなのか、はたまた武田氏滅亡後に旧領回復した際の小笠原氏によるものなのかは不明です。

登城道から見える竪堀。天然の沢を加工したものかもしれません

北東尾根の郭と切岸。付近には竪堀状の通路がありますが、遺構かは不明
主郭。南側(写真中央奥)に高さ3mほどの土塁があります
主郭(土塁上から)
主郭西面の石垣
主郭裏の堀切
二郭(右側が主郭)
主郭北面の石垣
主郭北面の石垣
城址全景
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埴原城(長野県松本市)
主郭南面の石垣
①別名:
なし
②築城時期:
不明
③築城者:
埴原氏
④分類:
山城
⑤遺構:
郭、土塁、堀切、竪堀、石垣、井戸
⑥訪城時期:
2012年4月
⑦満足度:
★★★★☆
⑧歴史:
もともと埴原氏(村井氏)の居城として築かれたが、室町時代には信濃守護・小笠原氏の支配下となる。戦国時代に入ると小笠原氏当主・小笠原長時は、信濃進出を目論む武田信玄(晴信)と対立を深め、領内の城を整備、埴原城もこの時改修を受けたと考えられる。天文十七年(1548)、小笠原勢は塩尻峠の戦いで武田勢に惨敗。天文十九年、信玄が松本へ攻め込むと、まず「イヌイの城」を攻め落としたが、この「イヌイの城」が埴原城であるとされる。「イヌイの城」落城後、小笠原方の諸城は相次いで自落、長時は戦わずして越後の上杉謙信(長尾景虎)のもとへ逃れ、埴原城も小笠原氏の没落とともに城としての役割を終えたものと考えられる。
⑨訪城記:
松本市街から車で20分ほど、中山の蓮華寺の裏山が城址です。近年、城址の至るところに遺構を示す標柱が立てられたようで、見学しやすくなっています。城は山頂に中心となる東西2つの郭を設け支尾根にはいくつもの段郭を配置、要所には石積を設け、数十本もの堀切や竪堀で尾根や斜面を防御しています。中心となる山頂の2つの郭は、東の郭の方がやや高い場所にありますが、西の郭の方が面積が大きく、西の郭が主郭、東の郭は尾根続きから主郭を守る、もしくは主郭の詰の郭の役割を担う郭だったものと思われます。主郭は二段からなり、南面と北面の塁壁には、石垣が残ります。他の郭にも石積みはあったようですが、現在ではほとんど崩れ去ってます。主郭東側の郭の背後には尾根続きを遮断する堀切がありますが、この堀切からさらに尾根伝いに堀底道が続き、さらに堀底道から何本もの竪堀が畝状に連続して穿たれていて、尾根続きの斜面を防御しています。
埴原城は、山頂から伸びる幾つもの尾根を取り込んだ比較的規模の大きな城ですが、周辺の桐原城や山家城に比べると、縄張は単純な印象を受けます。
平時の館址とされる蓮華寺裏の削平地
南側支尾根の二重堀切
主郭址。東側(写真奥)には高さ3mほどの土塁が残ります
主郭北面の石垣
主郭北側の斜面に残る巨大な竪堀
主郭東方に残る堀切。埋まっているのか、あまり鋭さがありません
堀切から先、尾根伝いに残る堀底道
堀底道を進んでいくと、堀切の脇に井戸址が残ります
堀底道付近の斜面を下る、畝状竪堀
北側の支尾根に残る堀切
主郭の南下に残る井戸。こちらは今でも水が出ています
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躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)

館址に立つ武田神社
①別名:
武田氏館
②築城年代:
永正十六年(1519)
③築城者:
武田信虎
④分類:
平城
⑤遺構:
曲輪、土塁、石垣、水堀、空堀、土橋、井戸
⑥訪城時期:
2012年4月
⑦満足度:
★★★☆☆
⑧歴史:
永正十六年(1519)、甲斐守護・武田信虎は、躑躅ヶ崎館を築いて石和館から居を移した。天文十二年(1543)、信虎の息子・信玄(晴信)がクーデターを起こして父を駿河へ追放して家督を継いだが、信玄もまた躑躅ヶ崎館を本拠とした。信玄は「人は城、人は石垣」の言葉で知られる様に、甲斐国内にほとんど城を築かなかったと言われる。信玄の跡を継いだ勝頼は単郭だった館を改修して曲輪を増設するが、天正九年(1581)新たな居城として韮崎に新府城を築き、躑躅ヶ崎館は破却された。武田氏滅亡後は、徳川家臣・平岩親吉が城将となり、館の改修が行われるが、一条小山の甲府城が完成すると、躑躅ヶ崎館は廃城になった。
⑨訪城記:
躑躅ヶ崎館・・・そう、あの武田信玄の生涯の居館です。現在では館址は主要部が武田神社の境内となり、土塁や堀などの遺構が概ね良好な状態で残されています。堀は水堀の部分と空堀の部分がありますが、いずれも幅・深さともかなり規模の大きいものです。また天守台を始め、各郭の虎口に石垣が見られますが、これらは武田氏滅亡後、平岩親吉によって築かれたものとされます。近年、大手口の馬出周辺が発掘され、平岩氏時代のものと思われる石垣や土塁・堀が復元されてました。
武田氏の本拠だけあってか遺構の規模がでかいのですが、要害山城同様、徳川・豊臣の手がかなり加わっているであろうことを考慮して見学する必要がありそうです。
中曲輪西虎口の土塁と石垣
中曲輪・西曲輪間の水堀

中曲輪・西曲輪間の堀。こちらは空堀ですが、半端なく規模がでかいです
天守台の石垣。特別に許可を頂いて見学しましたが、非公開・立入禁止です
中曲輪塁壁上から見る天守台
西曲輪西面の堀。こちらは水堀です
大手付近に復元された土塁と堀

梅翁曲輪の水堀。道路を挟んで神社の南西方向に残ります
地図
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